あとで書くのを忘れそうなので、とりあえず場所だけ作っておく。すでに先行してhokke_ookamiさんが交通整理をされている。
ことの発端
NATROM氏の主張『化学物質過敏症は臨床環境医によってつくられた「医原病」だと思う』への批判 - Togetter
ここでのやり取りについて、オレが以下のように感想を書いたところ、NATROMさんからその根拠を求められた。
なんの話をしたいのか
- 医療における、患者の自己決定権。
なんの話ではないか
- 化学物質過敏症とはなにか
- そういう話はしていません。
- 化学物質過敏症の原因物質はなにか
- そういう話はしていません。
- 化学物質過敏症を有意に検出する方法
- そういう話はしていません。
- 化学物質過敏症は心因性であるか
- そういう話はしていません。
- 化学物質過敏症は医原病であるか
- そういう話はしていません。
- 化学物質過敏症の存在を科学的に実証できるか
- そういう話はしていません。
- 患者の自己診断は正しいか
- そういう話はしていません。
- 医療者は患者の自己診断を採用すべきか
- そういう話はしていません。
- 医療者はどう診断をくだすのが正しいか
- そういう話はしていません。
- NATROM先生は何を語ろうとしていたのか
- そういう話はしていません。
- 心因性とは「気のせい」という意味では…
- そういう話はしていません。
- ホメオパシー…
- そういう話はしていません。
- ニセ科g…
- そういう話はしていません。
- リテr…
- そういう話はしていません。
たとえばの話、化学物質過敏症の大半の原因が心因性ではなく化学物質であり、ごくまれに心因性が疑われ、そのうえ患者はこの症状の原因を心因性であろうと疑っているにもかかわらず、臨床医がこれまでの統計上から化学物質が原因なのだろうと推測した場合においても(つまり現在に考えられているのとは正反対のケースであっても)、オレの議論はまったく影響をうけない。オレが問題としているのは、化学物質過敏症をどう考えるか、ということではまったくない。
祖母の話
オレの祖母は80歳を過ぎて、かなり痴呆症が進んでいる。身体障害があり、要介護と認定されている。週に何回か、介護サービス(デイ)を受けているが、家族が車いすに乗せて送りだすだけで、本人がみずからの意志でデイに行こうと決定しているのではない。
ある朝、祖母は大きな声で訴えた。「デイには行かないからね!」体が弱っていて、ふだんはそんなに大きな声を出せない。ふつうにしゃべるのも困難なくらいなのに、この日はとなりの部屋にも聞こえるような、大きな声だった。
「なに言ってんのよ!デイの人、施設で待ってるでしょ!」と、彼女の娘がどなりつけた。母親をデイにあずけている時間だけが、1週間のなかで休息をとれる貴重な時間なのだ。この日も外出の予定を入れていた。
祖母は反論した。「あんたは、わたしがどんな辱めを受けても平気なのかえ!」
なにを言っているんだろう、意味がわからない。
「わたしがデイにいるとき、どんな思いをしているのか。あんた、分かってるのか!わかい男どもが数人がかりで、わたしの服をぬがして、体中をじろじろと見て、にやにや笑ったりしてるの!自分の母親がそんな恥ずかしい、つらい思いをしてるのに、娘のあんたは平気なのかえ!平気な顔して、あんなところへ送りとばすのかえ!」
娘は呆れて、「なにをバカなこと言う…。そんなことが…」
「あんたは知らんからそんなことが言えるのよ!じゃあ、ウソだと思うなら、あんたが行って見てきたらいい!わたしは行かない!」
ありえない。
介護施設の男性スタッフが、入浴の支援をすることはあるかもしれないし、それを祖母が恥ずかしく思うことはあるかもしれない。しかし、どこの世界に90歳にもなろうとしている老人の裸体を見て、それをうれしそうに眺めたり、喜んだりする男がいるというのか。そんな物好きなスタッフが、しかも複数もいるとはとうてい考えられない。じっさいに現場を見たわけではないにしても、99.99%、そのようなバカげた事実は存在しないとオレは確信できる。
ここで、祖母の娘(オレの叔母にあたるが)は、ひじょうに正しい発言をした。
「そんなことがあるわけないでしょ!なにをバカなこと言ってるの!お母ちゃんの裸を見て、喜ぶような男の人がいるわけない!そんなことは子どもが考えても分かる!ほらっ、デイの迎えがきた!」
けっきょく母娘は折りあうことのないまま、迎えの時間が来てしまった。
介護施設のわかわかしい男性スタッフ(たしか氷川きよしさんに似ていた)が、さわやかな笑顔で車から下りてきて「おはようございまーす!」と祖母に声をかけた。祖母はだまってふるえていた。
祖母は立つことはおろか、自力で寝返りをうつこともできない。男性スタッフはやや困惑の表情を浮かべていたように思うが、叔母が申しわけなさそうに合図を送ると、祖母をかかえて専用の車いすに移し、迎えの車まで押していった。
祖母は最後の気力をふりしぼるように、「いやだー!たすけてー!」と叫び声(ただし聞こえないほどの小さくかすれた声で)をあげながら、迎えの車に乗せられ、施設へ連れられていった。
オレは思った。これはレイプだ。
なにをすべきだったのか
オレや叔母、介護スタッフはなにをすべきだったのか。その答えは分からない。おそらく、これぞといった唯一の正解はないのだろう。
しかし、祖母がなにを訴えようとしていたのか、これについては必要充分な推測が可能だ。
彼女は、その原因がなんであるかは分からないが、デイサービスを受けることに対し、不安や恐怖を抱いているということだ。そして、それを無理強いする家族に対する失望と怒りを感じている。これは疑いようのない明らかな真実である。
介護施設の男性スタッフが数人がかりで彼女の服を脱がし、裸体を好奇の目で見る、という事実は99.99%存在しないだろう。しかし、そうされるのとほぼ同等の恥辱を受けるのではないかと恐れているのは、きわめて確かだ。
他のなんぴとが否定しようとも、彼女がそのように予感し、不安と恐怖、失望と怒りを抱いていることは動かしようのない真実であって、たとい家族であっても、いかなる事実があろうとも、それを否定することは不可能である。
にもかかわらず、叔母がやったことはどうだろうか。「そんなことがあるわけがない」と、冷たい事実を突きつけただけである。たしかに、それは事実なのだろう。しかし、それが恐怖におののく祖母にとって、どれほどの意味があっただろうか。どれほどの救いになったと言えるだろうか。
なぜオレたち家族は、祖母のかかえる真実をなかったことにして、介護サービスを強行したのだろうか。いやがって泣きさけぶ祖母を無理やり車に乗せ、施設に送りだした行為の正当性は、どこにあるのか。
少なくとも言えることは、祖母が自分の意志に反して施設へ移動させられたこと、それを正当化する口実に家族が「事実」を持ちだしたことだ。そのことは、介護スタッフを女性に替えて「事実」を強化したところで、まったく解決にはならない。
よくあるコピペ
彼女『車のエンジンがかからないの…』
俺『バッテリーかな?ライトは点く?』
彼女『昨日はちゃんと動いたんだけど…』
俺『バッテリーかどうか知りたいんだけどライトは点く?』
彼女『今日は○○まで行かなきゃならないから車を使えないと…』
俺『んでライトは点く?』
彼女『あたしはエンジンがかからないって言ってるのになんで急にバッテリーの話をするの?』
俺『エンジンがかからないのはバッテリーが…』
彼女『人の話聞いてる?バッテリーじゃなくてエンジンがかからないって言ってるの!馬鹿じゃないの?』
俺『…エンジンがかからなくて困ってるんだよねえ?』
彼女『わかってんならちゃんと人の話聞け!』
俺『…(´・ω・`)ヒドス』
フェミホイホイ -男女関係コピペ保管所-:彼女『車のエンジンがかからないの…』 - livedoor Blog(ブログ)
この笑い話はよく知られている。ここで転載したものは比較的に古いものだが、より新しいバリエーションではさらに会話の内容が詳細になっている。
この笑い話は、なにを笑っているのだろうか。
女性の思考能力の欠如、である。
一般的にはそのように考えられている。実際、この引用元のブログは副題に「狂ったフェミニズムは死ね」などとあるように、フェミニズムを呪い、女性を笑う、というスタンスで作られている。
では、この笑い話からえられる、真の教訓とはなんだろうか。
知識を自負するものは真実を見落とす、である。
この女性は、(病院なのかショッピングモールなのかは分からないが)外出しようとして車のエンジンがかからないことに気づき、男性に電話をする。そして「エンジンがかからない」と告げた。
男性は「女性はエンジントラブルの原因を知る方法も、それを直す方法も知らないのだろう」と思い、電話越しにさまざまなアドバイスをして、エンジンを直させようとしている。
バカな男だ。
この女性が、真に訴えていることはおそらく、「迎えに来てくれ」だ。
男性がなにをすべきだったかは明らかだ。女性は急いでいる。いますぐ車に飛びのって彼女の家へ行き、彼女を乗せて目的地に送ることだ。
なのに、おろかで滑稽なこの男性には、女性の言外の訴えが理解できず、なんとエンジン修理を自慢げにレクチャーするなどという恥ずべき暴挙に出たのだ!
そして、うんざりした風を装いながら、「やれやれ、これだから女は…。あいつらには論理的思考ができないんだ」と、したり顔で笑ってみせるのである。
この男性は、なぜ、この間違いを犯すはめになったのだろうか。
おそらく、自分のほうが車のことに詳しく、エンジントラブルを適切に処理できると自負していたため、自分の得意分野でこのトラブルを解決しようとした。そのために、このとんでもない失態をしでかしたのだ。エンジン修理に自信を持たない者なら、おなじ過ちは犯さなかっただろうことは疑いない。
真の化学物質過敏症
冒頭のToggeterを振りかえってみよう。
といっても、6月26日時点で運営者によって非表示にされているので、仕方ない。かれの発言をTwilog.orgでさかのぼることにする。今回の論争もどきは、6月8日に葵東さんへの説明として始まっているようだ。
かれは、化学物質過敏症とされる症状の「大半」は心因性であり、それ以外でも、化学物質でない要因で引きおこされている、と主張している。そうだよね?
そして、かれは化学物質を原因とする「真の」化学物質過敏症がありえないとは言えない、とも表明している。これも、間違いないよね?
ここで、かれの発言を引いてみよう。
なるほど。超微量のホルムアルデヒドに反応するなら、(まったく同じ条件下で)自然の木材を燃やしたときにも反応するはずだ、なぜなら木材には微量のホルムアルデヒドが含まれるのだから、という主張は分かりやすい。
ここでNATROMさんは、「真の」化学物質過敏症の反証をしているわけではない。そんな病態、そんな患者はありえないのだとは言っていない。
ところが、翌日のツイートではいきなりおかしな話になってくる。
なんだろう、これは?
NATROM先生は、「真の」過敏症を否定していなかったはずだ。にもかかわらず、ここでは「わからない」として理解を拒絶している。そのうえ「一緒にされたくないでしょ?」と、ほかの患者を抱きこんで過敏症患者から距離を取らせようとしている。
「3m先の野菜の残留農薬に反応する」患者がいたって、いいんじゃない?
「真の」化学物質過敏症の存在を否定していないのならば。
かれの本性が、次第にあらわにされていくようだ。
微量の化学物質が原因となり過敏症が引きおこされると考える医師を臨床環境医というようだが(オレは医学的なことは分からないので内容には立ちいらない。ここでは、そういうことにしておく)、かれは「臨床環境医の連中」を均しなみに「根拠なく諸症状を微量の化学物質のせいにする」との認識をしめしている。
ここで振りかえってほしいが、かれは「真の」化学物質過敏症の存在を否定していない。
オレは考えた。では、だれが化学物質過敏症と診断するのか、と。
「悪魔の証明」に関するよくある誤解
すこし脇道にそれるが、「yunishioが“悪魔の証明”を求めている!」と勘違いしている人がちらほら見えるので、釘を刺しておくことにしよう。
「悪魔の証明」――。もとはローマ法における土地所有権の問題に始まる言葉だということだが、この言葉はよく誤った文脈で用いられている。
たとえば、1937年末から翌年にかけて日本軍が中国軍民を虐殺するなどした歴史的事件「南京事件」について、その事件の存在をしめす史料は膨大にあり、事件の実在を疑うことは不可能であるところ、「南京事件は存在しない」と考えたい論者がしばしばこの言葉を口にする。かれが一体、どういう理路をもってその言葉を持ちだしたのか、まったくわけが分からないだろう?普通の人間ならば、みんな理解できなくて当たり前だ。
かれは実のところ、こう考えている。「南京事件は存在しない」→「不在を証明することはできない(悪魔の証明)」→「だから不在を証明する責任はない」「証明を抜きにして不在を主張できる」、と。
言うまでもないが(しかしあえて繰りかえすが)、南京事件の存在をしめす史料は膨大にあり、事件の実在を疑うことはもはや不可能である。もし、南京事件が存在しないのだとすれば、これらの史料が存在し、これらの史料が示唆する事実はなんだというのか?
かれは、南京事件の不在を主張するならば、まずこれらの史料群から導きだされる事件実在の証明を崩さなければならない。
よく誤解されているのだが、「悪魔の証明」という言葉が伝える教訓は、「不在を証明することはできない(あるいは困難である)」ということではない。ましてや「挙証責任を果たすことなく不在を主張できる」という言い訳でもない。
科学は、実在の証明を崩すこと(反証)しかできない。
「悪魔の証明」という言葉が伝える真の教訓は、反証を抜きにして「不在を主張してはならない」である。
あとで、ここに書きたしていきます。
結論めいたこと
※ ただし結論ではない。この記事が主題としているのは、患者の自己決定権についてであり、すなわち以下は余談である。
ニセ科学は、その名のとおり科学の装いをまとう。
ときには、ニセ科学を批判するつもりで、つまり当人は科学に立脚しているつもりで、じつはニセ科学に足をからめとられていることがあるかもしれない。
ニセ科学であるかいなかは、個別の論点に対する賛否によって決まるのではない。科学とは「考えかた」の問題であるから、考えかたが間違っていれば、たとい結論が合っていても、それは科学とは言えない。
たとえば――。
「太陽は東から昇る」という説明は正しい。「太陽が地球の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回る」という説明も正しい。しかしその2つを同時に主張することはできない。なぜなら、「太陽は東から昇る」とするのは、天動説とおなじ視点に立った説明であり、地動説の立場では、太陽は東から「昇らない」はずだからだ。矛盾している。
にもかかわらず、多くのひとがこの説明を科学的だと感じるのは、なぜか?
たんなる思いこみである。教科書にそう書いてあったから、それが科学的に正しいのだろう、と信じているだけで、みずからの理性をもって証明を立てたものではない。科学的な権威者の言うことだから、と鵜呑みにする態度こそ「非科学的」とは言えないだろうか。